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かたわれの約束

この世における日常

北海道開拓の歴史 の記事一覧

月形・浦臼

2016.06.13 (Mon)
月形 
自然の要塞
赤い衣が切り拓いた道

月形の歴史は囚人の収容施設の
設置に始まる

月形・浦臼地域は
樺戸連峰と「暴れ者」と
異名の高い石狩川の間に位置している

こうした地形がまさに
「自然の要塞」として
囚人の脱獄を防止・監視するのに
適している理由から
旧樺戸集治監がここに設置された

月形の地名の由来は、
初代典獄 月形 潔 
の名字を取ったもの


月形樺戸博物館
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国立級といってもおかしくない
立派な展示施設
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じっくりと見学・学習できる場所

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・・入口
囚人が何度も鉄球を引きづって、
出入りしたため削られた石


なぜ北海道に集治監?

ロシア南下に対する保安
難民等の住まいの提供
など

北海道の開拓を進め
人口を定着させる必要があった

最も過酷な基幹開拓作業(いわゆる道路や拠点づくり)
を囚人に当たらせる思惑から北の監獄は作られた

当時
倒幕の動きなど
混乱を極め
何が正しいかわからない時代のこと
思想犯的な囚人も多く見受けられた


冬の厳しい寒さ
立ちふさがる大木
開拓は困難を極め
途中数多くの病死者が発生
出所後は逃げ帰るように
本州へ帰って行った人もいる
恐れられた北の監獄

当時の囚人服・赤い衣たちが
切り拓いた道は計り知れない

あらゆる道について
言えることだが
「最初の一本の道」を作ることは
どれだけ大変なことか

月形樺戸博物館では
そうした開拓の事実について
知ることが出来る

ふだん利用している道路は
もしかしたら
囚人が切り拓いた道なのかも知れない・・

こうした囚人たちの功績を
忘れてはならない
こうした思いが
月形樺戸博物館を通じて発信されている


見返りの楡(にれ)の巨木跡
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旧石狩川渡船場付近にあり
刑を終えた放免囚が振り返り
この楡が見えなくなるまで手を振ったもの

「皆楽公園」の湖面は
石狩川の切り替えで出来たもの
この木は現在の石狩川ではなく
皆楽公園側に位置している
つまりは皆楽公園の湖面から
囚人たちは還っていったと思われ
そうした湖面で
現在行楽等に賑わう様子を垣間見て
時の変遷を感じる
P_20160608_173703 - コピー

巨木はもう撤去されて、
いまは残念ながらもう無いが、
巨木楡の子供が、
現在そこに成長している。
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・・見返りの楡の巨木の子供の木と記念撮影



浦臼
坂本家が北海道と接点を持った所

坂本龍馬をはじめとする高知出身の方に焦点を当てた
「高知移民文化プロジェクト」が
高知発信で催されている
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唯一北海道会場として
坂本家にゆかりの深い
浦臼町の郷土博物館にて開催されている
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浦臼町と坂本龍馬?
結びつきがあることを
私は知らなかった

高知と浦臼の関わりは
明治時代に遡る

高知人・武市安哉が
キリスト教に基づく理想郷を
北海道で築くべく
使徒と共に浦臼の原野に移住

聖園と称する
農場・教会・学校を築くが
志半ばにして
武市安哉は死去

同郷のキリスト教信者
坂本直寛へと引き継がれた

直寛は
坂本龍馬の姉との間に生まれ
龍馬の甥にあたる存在

直寛は
浦臼で5人の子を育てた。
道東で活躍し画家としても有名な
坂本直行は直寛の孫にあたる

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・・現在も存在する聖園教会

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直寛の兄弟 坂本直の妻子
留と直衛の墓が
札的駅付近にあり
小高い丘の上から石狩川を見つめている


「あらやま時代」の冊子を入手
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浦臼郷土博物館にて
自由に持ち帰ることが出来る
実際に浦臼で開拓入植した
田村楠衛氏が
熊・自然動物との戦い・抜根伐採の様子等
開拓の様子を後世に伝えたいという思いで
執筆された大変貴重なもの
・・これまで知りたくてもなかなか知りえなかった
開拓入植の様子が克明に記録されている


知っていると知らないのとでは
天地の差

月形出身の同僚がいたり
浦臼ご出身のお客様もおり

月形・浦臼について
少しでも知ることが出来て
良かったと思う

栗山町の歴史

2014.07.12 (Sat)
北海道栗山町

ここは札幌から車で約40分の所にある
人口約1万3千人の町。

「小林酒造」や、きびだんごの「谷田製菓」、
鉄鋼の「内田鍛工」など全国的にも有名な企業がある場所です。

そんな栗山町を知るべく、
栗山町開拓記念館をを訪れました。
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すると、
意外な事実がわかりました。



開拓入植以前の探検時代

北海道の名前の生みの親「松浦武四郎」の夕張探検の様子や、
役場による測量の様子が展示されていました。
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開拓入植以前の北海道の写真を見たのはこれが初めてです。
まさに荒地に踏み入る勇気には、敬服いたします。


栗山町のルーツは現在の「栗山町角田」にあった

栗山町開拓の父 泉麟太郎
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明治3年宮城県角田市出身の泉麟太郎は、
室蘭に開拓入植するが、
狭く痩せた土地だった為、断念。

夕張開墾起業組合を結成し、
明治21年室蘭から同志7戸24名で
この地の開拓にやってきた。

途中、白老・千歳に泊り、
原始さながらの笹やいばらに雑木を交えた中を体中に傷を受けての道中でした。
当時4歳の男の子は、あまりの淋しさに「家に帰ろう」と泣き出し、
「ここが家だよ」といっても泣き止まず、母親までもが泣く有様だった。

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目的地対岸まで辿りつくも、雪解け水による夕張川の増水で、
1週間程度野宿の後、雪解け水の落ち着いた頃、
舟漕ぎの名人、アイヌ鉄五郎の手助けによりようやく川を渡ります。

明治23年夕張郡角田村(栗山町の前身)創設時には、
(当時の戸数62戸・人口287人)
麟太郎が総代人となっている。
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「角田村」の名前は、泉麟太郎の故郷・宮城県角田市から
名を取ったものです。

その後麟太郎を中心に、
開拓者達は、
明治26年水稲試作に成功した後、
用水を夕張川から引く計画をたて、
明治28年に水利土功組合を設立、
明治33年には夕張川からの引水工事を完成しました。

この事業により栗山の農業に「新しい時代」を開きます。
北海道内でも画期的な出来事として注目されました。
こうして、
麟太郎は栗山町の農場経営の発展に大きな功績を残しました。



・泉麟太郎の家が、
「泉記念館」として昭和54年より一般に公開されています。
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明治31年に建築されたもので、
昭和50年まで泉勝文氏が生活していました。
同時代に建築された沿岸地方の鰊綱本民家様式と比べ、
あたかも武家屋敷作り風の趣がある建物です。



伝説の現場監督

高橋俊英
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夕張川からの引水工事に献身的に貢献したとして、
その名が歴史に刻まれている。


川の氾濫に見舞われた過去
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明治時代から昭和時代にかけて、
毎年のように河川の氾濫に見舞われている。
家を流されたり、
行方不明になられたかたも多数いらっしゃる様です。
現在の北海道からは、
想像がつかない規模の災害です。
これまで治水に努めてこられた皆様に感謝です。


アイヌの宝「鍬形」の謎

アイヌの長の
神が宿ると云われ、病人の枕元に置き、病魔を追い払うなど、
祈祷具として用いられていたようです。
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唯一、栗山で7つも発見され、東京国立博物館へ移送。
その後3つが、栗山の発見者に返却されたが、
現在その行方がわかっていないそうです。


転居を申付けられるアイヌ
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夕張郡にいたアイヌは、開拓使の指示で、
他の郡への転居を余儀なくされいる。

・・・開拓入植の際、アイヌには、
なにかとお世話になっているはずなのに、
追い出すのは心が痛まなかったのでしょうか。
また、争いは起こらなかったのであろうか。


ちょうど、
開拓記念館では、特別展が開催されていた。
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栗谷川健一 「北海道をデザインした男」

12歳~14歳頃までの期間を栗山で過ごされている。

世界ポスターコンクールで最優秀賞を受ける等、
受賞・表彰は数知れない。
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メリハリあるタッチに、
印象深い色使い。
氏の作品には魅了されます。


藤島 亮
1938年栗山生まれ、
鎌倉などで活躍の後、
2002年栗山にアトリエを移す。
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柔らかい線で描かれた、風景画から、
地元栗山への愛情を感じます。



開拓ゆかりの学校

角田小学校
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明治24年 角田教授所として、入植した子供たちに教育をスタート。
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昭和の始めには2700人を超える児童が通っていたといいます。
今では他校合わせても約1/4くらいですから、
人口の減少や、都市集中型の現状が気がかりです。


開拓ゆかりの神社
角田神社
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鳥居から社殿を見ると、奥行感がきちんと取られており、
「身震い」いたしました。
今回は繁殖期の「カラス」に邪魔されたので、
奥まで行くことは出来ませんでした。
また来たいと思います。
例祭も行われているようなので、
機会が合えば、観に来たいと思います。

開拓記念樹
樹齢120年以上のハルニレがありました。
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神社開設時からあると云われており、
肉眼で見ると、たくましい存在感を感じます。



・・・ここは、開拓地にやってきたその時から、
川の水に苦しまされています。

そうした土地の特性を利用して、水路を引き、
水田を設け、地域を盛り上げました。

それでも、
諦めたくなるような、災害が繰り返されています。

そんな中、
「移り住むこと」を選択せず、
ここで何とかやってきた歴史がありました。

その理由は、村民の方々が「団結」していたからではないかと思います。

栗山の礎を築いてくださった先人に感謝して、
今後、栗山に関わっていきたいと思います。

当別町の歴史

2014.06.29 (Sun)
当別の歴史

当別について、
知るために、
当別伊達記念館を訪れた。

当別は、
自宅から、
車で30分くらいで来ることが出来る身近な場所です。

当別は
伊達政宗の子孫、
伊達邦直が開拓した場所。
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伊達邦直は、21歳のとき、
岩出山(宮城県)伊達家10代目を相続。
この時の家臣736人。

岩出山伊達藩は、
明治元年戊辰戦争に敗れ、
禄高(ろくだか)を大幅に削減されました。

これまで1万4640石だったものが、
わずか60石に減らされたそうです。

邦直は深く家臣の生活を憂い、
その再興と北辺の防備に北海道開拓を決意しました。

明治4年161名の移住者と共に、
厚田郡聚富(シップ)に移住。

しかし、
不毛の地であり開拓を断念。

その後当別調査の後に当別貸付許可を得て明治5年、
二回目移住者180名を加えて当別に移住しました。
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移住者は、
宮城県から船で室蘭に辿り着いた後、
200キロ近くも歩いて当別までやって来たといいます。
幼い子を連れて歩いている方もおり、
とても苦労されたことと思います。
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伊達記念館の隣に、
「伊達邸別館」がある。

明治13年建築、
多くの名士が宿泊・懇談のために使用された建物が、
移築保存されています。
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内部も見学することが出来、
当時の邦直の様子を伺い知ることが出来ます。


当別の「伊達家」は今でも開拓時からの同じ場所に
存在していました。

伊達家の道路を挟んで向かいに、
阿蘇神社がある。
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明治24年伊達邦直逝去する。
翌明治25年、
旧臣等が内務省に阿蘇神社(後の当別神社)創建を願い出て、邦直が祀られることとなります。

開拓ゆかりの学校
当別小学校
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明治5年、旧仙台藩支藩岩出山の伊達邦直公がその旧家臣と共に、
この地に移住し、岩出山伊達家の家老であった鮎田如牛(あゆたじょぎゅう)が開設した私塾に始まる、
開校140年を迎えた歴史と伝統のある学校です。

・・・伊達家のある場所、
当別神社、
当別小学校のあるあたりは、

当別町「元町」といいます。

今回勉強したことで、
このあたりが当別の中心であると、
理解することが出来ました。

古くから人が住み着いている所には、
濃いエネルギーがあり、

その地その地の「元」の場所を理解しておくことは、
大事なことではないかと考えています。

平岸の歴史

2014.06.19 (Thu)
平岸(札幌市豊平区)について知るために、
平岸郷土資料館」を訪れた。

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この建物は、児童会館が併設されている。
元気な児童たちのワイワイした声を聴きながら、
郷土の歴史に思いを馳せるのもなかなか良いものだった。


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明治4年、岩手県人59名が平岸に入植した頃は、
魚を取るための網を作るために、麻を栽培していたことから、
麻畑村(あさはたむら)と呼ばれていました。

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明治8年、アイヌ語で「崖の・尻の・ところ」を意味する「ピラ・ケシ・イ」をもじって、
平岸村」と改称されました。


平岸はりんご栽培と関係が深い地域です。

ケプロン

明治5年開拓使顧問ケプロンの進言により、
開拓使は米国より、
りんごを始めとした果樹類を輸入し、
全道各地へ配布しました。

平岸村には明治8年から10年にかけて、1900本の苗木が、
川沿いに中の島、平岸と栽植され、豊平川沿岸の沖積土で育ちました。

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そして明治14年には、結実した平岸のりんごは、明治天皇への献上品となりました。

大正2年の異常低温で北海道全域で林檎が大凶作でしたが、
平岸地区だけは被害が大きくなかった。
その理由は、凶作に適合する研究が進んでいたことや、
札幌農学校、北海道庁の指導を直接受けることが出来ていたからと言われています。

市内のりんご園が都市化の波によって、続々廃園に追い込まれる中にあって、
豊平川によって市街地と隔てられた平岸地区のりんご園は増反ブームを迎え、
昭和2年頃の村は林檎の海だったそうです。

昭和20年には林檎の生産量は最大に。
しかし、その後、
昭和27年頃から自然災害が頻発したり、
都市化の波が浸食したりして、
地域の様相が一変してしまいます。

昭和45年頃には地域の果樹園は消え、
現在では環状通りのリンゴ並木等にその面影を残すのみとなりました。


開拓時から昭和初期まで、
平岸を支えた林檎栽培。

幾多の困難を乗り越え、
苦労して、
林檎を栽培してこられた先人への感謝を忘れないよう、

現在も、
平岸の各所には、
林檎への思いが刻まれています。



開拓ゆかりの道
「平岸街道」

開拓使が原生林を一直線に切り開いた場所

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明治6年には中央部に用水路が作られていた。
昭和46年に用水路は埋められ、中央分離帯として整備。
現在はりんごの木が植えられている。


開拓ゆかりの学校
「平岸小学校」

明治23年開校
ここでは、
開拓の歴史に触れることが出来るものを多く発見いたしました。

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「校章」
りんごにちなんで、りんごの花びらの中央に「平岸」の文字を入れ、
まわりにりんごの種子をデザインしたもの。
子どもたちの未来への期待が込められている。


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「みのりの像」
平岸開拓110年を記念して昭和55年に校舎庭に建てられた。
背景のりんごの木と清楚な乙女像は北方に生きた人の強さと知性を示している。


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校舎の庭には、
「りんごの記念樹」が植えられている。


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「大イチョウ」
樹齢100年以上の歴史の木。
明治32年現在地へ移転した時から植えられており、
平岸小学校の変遷を見守っている。
大きくなりすぎて、枝葉が隣家に接触している。


「天神山緑地」


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ここから多数の土器石器が出土しました。
太古から人類がここに住み着いていた痕跡と思われます。

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見晴らし台からは、
平岸の町並みを一望することができます。

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緑地には日本庭園もありました。
歩いていても飽きません。


歩くこと頂部に、
「さっぽろ天神山アートスタジオ」を発見。

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旧札幌天神山国際ハウスを改修・再整備し、
今年夏に開催する札幌国際芸術祭に併せて、
札幌市の新しい文化芸術施設として、
つい先月5月に開館したようです。

創作活動で滞在できるスタジオもありました。
とても安値でお借りできるので、
集中した創作活動をしたい時は、
ここへ来るのも良いかも知れません。

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サロンに巨大な網み蛸が。
「網み師203gowさん」というアーティストの作品の様です。
203gowさんのブログ

「札幌国際芸術祭」は7/19から9/28までとなっております。
多くのアーティストがここ、
天神山緑地を訪れることでしょう。


「久保栄の文学碑」
明治33年12月28日、札幌生まれの
劇作家・久保栄は、翻訳・評論・戯曲・演出・小説の分野で生きた。

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平岸りんご園は久保栄氏が若いころスケッチを楽しんだ場所。



開拓者ゆかりの神社「相馬神社」

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天神山緑地からも行くことが出来ます。
明治35年、北海道の開拓と地域の殖産産業の発展を願い、
福島県相馬郡太田村鎮守相馬太田神社の御分霊を奉祀したのが、
相馬神社のおこり。

御神木である、樹齢300年以上のシバグリがある。
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開拓者の思いが込められた相馬神社。
ここに来ると、
身も心も引き締まる感覚です。

こういう場所へは、
なるべく多く足を運ぼうと思いますし、

建築関係で、今後、
豊平区で神事を行うときは、
是非お願いし、
開拓の精神をより深く学びたいと思います。


・・・平岸には、今回3時間程度の滞在でしたが、
これまで全く知らなかった歴史の中に、
新しい発見もあり、
とても良い時間となりました。


凝り固まった視点を、
リセットして。

立ち止まって、
見たり感じる。

そうすることで、
また、
別の視界が拡がっていきます。

今度は、仕事で。

ここへ来たときには、
平岸について、
もっと詳しくお話しできる人になっていきたいと思っています・・。

月寒の歴史

2014.06.12 (Thu)
「つきさっぷ郷土資料館」を訪れ、
月寒(札幌市豊平区)の歴史について調べた。

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つきさっぷ郷土資料館は昭和16年に完成し、
北部軍司令部司令官官邸として使用されていた建物です。


遥か昔、月寒川のほとりをこのあたりに住む人々は「チキサニ」とか「チキサブ」と呼んでいたそうです。
いわれは、火をきる所、火をきるもの「赤だも」のある所といいます。

明治4年に岩手県人が入植したのに伴い、開拓使は月寒村(つきさっぷ)と命名しました。
その後人口が増えるに従い「つきさむ」と言う人々が出てきて、昭和19年以降は「つきさむ」となっています。

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月寒発祥の場所は、
月寒川と現在の国道36号線が交差する地点の近くでした。

その後、明治29年、
月寒には
国策で、歩兵第25連隊が入隊しました。
このことは、月寒にとって大きなポイントとなります。


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軍が駐留することにより、
需要が発生し、
商店などの出店が盛んになり、
街の発展に繋がりました。

演習射撃場だった所は、アメリカ駐留時期を経て現在は「月寒公園」となり、
子供から大人まで楽しめる総合公園となって市民に親しまれています。

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練兵場は、その後「道営札幌競輪場」だった時期を経て、
1972年の冬季五輪アイスホッケー会場として、
「月寒体育館」が建設されました。


あんぱん

「月寒あんぱん」は、兵士に人気だった。
明治29年、軍隊設営工事の為、多くの本州人員が移住した中に、月寒あんぱんを生み出した仙台出身の大沼甚三郎氏もいた。
大沼氏は東京で桜あんぱんが大流行していることを人づてに知り、想像でオリジナルのアンパンを作り「月寒あんぱん」と命名した。
甘みが貴重な当時、兵士たちに人気の一品となりました。


あんぱん道路

「アンパン道路」
明治43年町役場の移転をきっかけに道路工事が始まった。
延7600人の兵隊が工事に従事し、近隣の住民たちも手伝って約4か月で道路は完成。
町長は工事中、兵隊への感謝の気持ちとして毎日一人5個ずつのアンパンを配ったそうです。
この道がアンパン道路と呼ばれるようになった由来です。

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「平和公園」
戦没・病没者を供養する墓地が設置されています。
かつてここは、歩兵第25連隊が駐屯する基地「北部軍司令部」の敷地でした。
公園の正門には、北部軍司令部正門の門柱が移設されています。

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忠魂納骨塔のまわりにバリケードが設置されていました。
よじ登ったりするのを防止するためでしょうか。
少し残念です。

開拓ゆかりの神社 月寒神社

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明治17年に広島県からの開拓移民者が、
厳島神社の御分霊を奉祀し、小祠をつくったことが、
月寒神社のおこり。

大きい樹木に囲まれ、
記念碑や月寒公園が傍にあったりして、
開拓の歴史を感じる場所です。


・・・今回は、月寒と軍隊の関わり、
その歴史が町並みにどう影響しているかについて知りました。

「月寒あんぱん」の存在を知っていましたが、
これまで私は、特に何も感じずに通り過ぎておりました。

勉強する度に、
あまりに知らないことが、多いと感じております。

今後も継続して見識を深め、
不動産取引の場で活かせるよう行動して参りたいと思います。
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